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日仏の鉄道に関するエピソード

しばらくご無沙汰しましたm( _ _ )m

明治時代に決まったことが、現代にも大きな影響を及ぼしていることは、沢山ありますが、その代表的なひとつが鉄道のレールの幅です。

新幹線は別として、今でも山手線も中央線も京浜東北線もみーんな狭軌です。これは1872年に新橋―横浜間に最初の鉄道ができた時からのことです。
その時に英国人の技師が狭軌にするように強く主張したために、イギリスの植民地と同じ狭軌になったと言う話を良く聞くけど、話はそれほど単純じゃあなかったんです。

確かにイギリスでは1846年に軌道幅員法(The Gauges Act)が制定されて、イギリス本国での軌道の幅は標準軌になっていくんですが、それ以前から、そしてそれ以後も沢山の狭軌の鉄道がイギリスでは建設されたのです。なぜかというと狭軌の方が敷地面積は少ないし、トンネルの直径も大幅に節約でき、山や谷を縫うように線路を敷設するのも容易だったからです。

日本でも明治20年代以降(1890年ごろから)、盛んに狭軌から広軌へ変えるべしという議論が沸き起こりました。でも、産業の振興と国防のためには、とにかく早く、安く全国に鉄道網を広げる必要があったのです。

先日、ご紹介した松方正義も狭軌派でした。もちろん彼は大蔵大臣としてコストの圧縮ということを重視したという面はありますが、山が多い日本の国土事情を考えて狭軌がよいと主張した面もあると思います。

これは、彼が1878年のパリ万博の際に現地で交友関係を持った、万博総監督のJ-Bクランツの影響によるものと考えられます。
ライシャワー元駐日大使の夫人のハルさんは松方正義の孫娘ですが、彼女が書いた本の中に、クランツが松方に「日本のように山がちの国では、英国のように(注、クランツは当時の英国は狭軌が多いと認識していたようです)狭軌にしたほうがトンネルや橋を建設する費用が少なくてすむ」と狭軌を維持するようにアドヴァイスしたという話が紹介されています。

クランツはいわゆるグランゼコールというフランスのエリートが行く学校の中で理科系の双璧であるエコール・ポリテクニック(工科大学校)とエコール・デ・ポンゼショセ(土木大学校)を出た秀才でした(注、あと理系ではエコール・デ・ミーヌ[鉱山大学校]も有名)。
19世紀は鉄道の時代でしたが、彼はグラン・サントラル鉄道(注、後にフランス国鉄の一部として吸収されたフランスの中部山岳地帯[マッシフ・サントラル]を走る鉄道の会社)の建設に携わったことがあるので、その経験に基づいたアドヴァイスだったのでしょう。

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